『86―エイティシックス―』を読んだので書いたあっさい感想記事
まんがタイムきららじゃなくね???????????
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うるせ~~~~~~~!!!!!! 知らね~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!
というわけで電撃文庫『86―エイティシックス―』を読んだのであっせえ感想記事を書いていきます。アニメも続編も何も見てないし第一巻しか読んでないので本当に浅瀬の中の浅瀬です。
つーか『86―エイティシックス―』を読んでくれと脅してきたフォロワーに向けて書いてるようなエントリなので本当に目を瞑ってほしい。感想と言うよりかは読んだことを伝えるための報告が目的なので……。
※ネタバレ注意!
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感想
ぶっちゃけ書くことね~~~~~~~!!!!!!
物語として面白い。閉塞した雰囲気、状況と、それに伴う人間関係を描くのがクソ上手いなってのが印象。滅亡した「共和国」から脱出して自由を手に入れるってのがこの物語なんだろうか。
抑圧されているエイティシックス側が実は世界の真相を知っている誇り高い存在で、白人種側が塞ぎ込んで現実を見ようとしない愚かな存在として描かれているということだろうか。兄とシンの戦闘においても、「前に進む」ということが両者の雌雄を決する理由となったことを考えると、そういう語りの恣意が働いているのかもしれない。
物語内容から論じるのであれば、これは未来に向かって進んでいく姿勢をこそ評価する物語であり、だからこそエイティシックスを尊いもののように描き、白人種を卑しいもののように描いている。
未来に向かって進むことを、『86―エイティシックス―』は「自由」という言葉で形象している。白人種の支配から解放されて、連邦軍の一員になった彼らは紛れもなく自由を得た。同時に、彼らと関わったことで絶望を知らず理想ばかりを掲げる「処女のような」女だったレーナは、絶望を知り、「自由」を得るために「鮮血女王」となる。即ち、号持ちとなる。
ここにおいて、レーナは物語が始まったときのシンらと同じ位置に立った。「思ってたのとだいぶ違うんだが」と最終章でレーナが評されたが、それも当然である。物語が進行しきった段階のレーナは当初と異なるキャラクターになっているからだ。異なる人間になったわけではない。異なるキャラクターになったのである。
号持ちとなった彼女は「共和国」から「連邦」へと派遣されてくるが、あくまでもそれは共和国の大使という形で、である。
つまるところ、「共和国」が滅亡してもレーナは「共和国」に囚われていたということだろう。レーナは「自由」になったわけではない。未だに「共和国」の人間である。
そして、それは虐げる側であった共和国側の白人種であったが故の贖罪ということもあるのではないだろうか。白人種が有色人種を虐げていた歴史のある国家で、虐げた側に属していたことがある以上、シンたちのように共和国から脱出を図るというのは「自由」ではなく、眼前の困難から目を逸らす行為に外ならず、それはこの物語が散々批判してきた人物像に他ならない。
だからこそ、彼女は共和国からの脱出という意味で「自由」になることはできない。その点で、シンたちは常に物語上でレーナより進んだ地点に立っている。しかし、「おいていかないで」と懇願した彼女は「連邦」で再会することができた。
その点からすれば、「おいつく」ことができた物語であるように捉えられなくもない。この辺は解釈の問題であろう。物語内容の吟味という点で、この論点は(あまり使いたくない表現なのだが)解釈次第ということになるのだろう。知らんけど。
物語言説についての論はやる気ないのでパス。というかこれ感想じゃないやんけ。
オタク(一人称)、作品を論じがち。もっと語彙力少なくなるような作品の楽しみ方を行えばいいのにね。というか論じるより前に続編読めばいいのでは?????
このエントリの存在価値が半分以上失われたところで、筆を置きたいと思います。
ここまで読んでくれてありがとうございました~。
ところで、今年の春クールで放送してたアニメ版って一巻内容だけを映像化したってマジ? どんだけ引き延ばしたんだろ……