概論・喜多郁代の性格について
お疲れ様です。2022年にブログを更新しなかった星見秋です。
ふせったーでちょっと自分の喜多郁代という女に対する私見をまとめてたんですが、思ったよりも論理性があったので、せっかくだからこっちにも載せてしまいます。
見づらい所もあるかと思いますがご容赦ください。
要点はこんな感じです。
・ 喜多郁代は別に性格のいい女ではない
・ 喜多郁代の要点は行動力
・ 後藤ひとりと喜多郁代の人物像は対比関係にある
以下内容です。(ふせったーの内容コピペ)
・喜多郁代の性格について
根本的に、喜多郁代という女の性格は大して良くないと考えられる。
なぜなら、本当に性格がいい女は山田リョウの顔面に一目惚れして楽器を購入し、経歴や技能を偽ってまで山田リョウと同じバンドに所属し、その挙げ句にライブをばっくれるようなことはしないと考えられるからだ。
その後いくら反省の意を示したところで、しでかしたことは覆らない。同様に、いくら性格の良さそうなムーブメントをしてみせたところで、でもこいつライブばっくれたんだよな……という印象を打ち消すには物足りない。
ぼっちが捨てた文化祭の応募用紙を勝手にゴミ箱から拾い上げて提出したこともそうなのだが、性格が良いということはできない。
思うに、喜多郁代という人物の肝は、自分のやりたいことを実現するために行動を起こすということではないだろうか。
例えば原作では高校生らしい思い出を作りたいという理由で駄々っ子みたいに地面をのたうち回る奇行を起こし、結束バンドのメンバーで下北沢の街ブラを行った。
同様に、夏合宿の際には就寝しようとしているメンバーに対して、寝室の照明のスイッチを連打することによって無理やり叩き起こし、肝試しや徹夜配信に付き合わせていた。
こんなことは、本当に性格が良い人間であるならば絶対に行わないと言うことができるだろう。
他人への配慮があまりにも喜多郁代の頭から抜け落ちている。
おそらく、喜多郁代は自分のやりたいことを臆面もなく提案し、かつそれを押し通せる人間として描いているのだろう。なればこそ、ぼっちが捨てたステージ申請書をゴミ箱から拾い上げて提出するという所業ができるのだ。
(余談だが、原作にはしばしばぼっちが人の頼みを断れない意志薄弱人間であることを利用して、「ひとりちゃんもそう思うわよね?」「あっはい……」といった形で自分の意見を押し通そうとする場面が見られる。
これは、後藤ひとりと喜多郁代が自分の意見を表出できるか否かという観点において、対比関係にあるものとして描写しているためと思われる。
何にしても、性格の良い人間が行うにしてはしたたかすぎる所業であることは否めない)
ところで、原作およびアニメ最終話では、喜多郁代が
「私、みんなと合わせるのが得意みたい」
というようなことを言っていたが、正直なところ、この発言は信頼できない。
何せこの発言は自己認識であるに過ぎず、俗に言う”信頼できない語り手”に近しい違和感が生じてしまう。
本当に他人と合わせることが得意な人間は、寝室の照明のスイッチを連打して人を叩き起こしたりしないし、バズることしか考えていないような食材でバーベキューを行おうとはしないし、虹夏に「SNS中毒」と揶揄されるほどイソスタにはのめり込まないはずである。
他人と合わせるのが得意で、だからこそ自分の平凡さに悩んでいた少女というのが喜多郁代本人の弁ではあるが、先に上げた奇行を繰り返す彼女はどう考えても平凡とは呼べない。奇特としか言いようがなく、そのため陽キャと呼べるかも怪しい。
喜多郁代は、陽キャの皮を被った、陽キャでもなんでもない奇人と捉えるのが、原作を読む限りでは自然なように思われる。
そういう点では、後藤ひとりが陰キャの皮を被った、陰キャでもなんでもない単なる奇人であることと一致している。
そもそも、喜多郁代を陽キャに分類していたのは後藤ひとりであるため、後藤ひとりの歪みきったバイアスによって強引に喜多郁代が陽キャ判定を受けているに過ぎないとも思われるが。
後藤ひとりと喜多郁代は、確かに対比的なキャラクター付けがなされている。しかし、台詞で語られていることと本編での描写があまりにもかけ離れているため、本編で語られるような、陰キャ / 陽キャの関係とは程遠い実態となってしまっている。
実際のところの対比関係は、あくまでも自分の意見を表出できるほどの意思の強固さと、それに付随する周囲への忖度感情の比重というところにあるのではないか。
それは、つまり、自分なんかが言っても大丈夫かな、と杞憂する後藤ひとりと、ひとりちゃんも喜んでくれるわよね! と(陽キャの価値観で)いらんことする喜多郁代ということである。
喜多郁代は、喜多郁代の価値観で行動している。そこには後藤ひとりのような陰の者の価値観は存在しない。故にこそ、後藤ひとりの青春コンプレックスをいとも容易く刺激する。
実のところ、喜多郁代が周りに合わせたことなどないのではないだろうか。後藤ひとりの陰の価値観を慮る伊地知虹夏を見ていると、余計にそのような疑念が湧いてくる。
喜多郁代は、陽キャという皮を被った、別のナニカである。彼女は聖人ではないし、周りに合わせることも得意ではない。
彼女が得意なのは自分の意見を押し通すことだ。それは、他人の感情や価値観に鈍感だということでもある。
後藤ひとりが意外にも周囲の人をよく見ていると評されている以上、対比関係にある喜多郁代は周囲を全然見ていないということでもあるのだろう。
……本当に。なんでこんな奴がまるでいい女であるかのように扱われてるんだ?
以上です。
お読みいただきありがとうございました。